川合小梅

川合小梅

川合小梅(江戸末期・女流画家)

文化元年(1804)12月22日に、徳川和歌山藩士の川合鼎(かなえ)と妻辰子とのあいだに、和歌山釘貫町2丁目の川合家で生まれました。

父の鼎は紀州藩学習館の助教で、向学の志強く京都にも遊学しましたが、文化5年(1808)3月4日、31歳で病没されています。

 

その時まだ当時5歳だった小梅は、祖父の春川と母の辰子のよって養育されることになります。

小梅の祖父春川(名は衡(こう)宇は丈平)。

母の辰子は、本居太平の門人で、国学と和歌を学び、特に和歌に精通していました。

春川からは漢学、辰子からは和歌を学び、また絵を画師松亭に学んだ後、野呂介石の門弟である野際白雪に師事されました。

 

1819年(文政2年)に川合家に養子として迎えられた梅本修(号は梅所。紀州藩士梅本五兵衛の子、通称は豹蔵。後に川合梅所は紀州藩校の学習館の督学(学長)となる)と16歳で結婚されます。この頃より、日記を書き始めています。

 

1833年(天保4年)には、30歳で息子の岩一郎(靖之、雄輔。後に教師となる)を出産されています 。

 

梅所は安政4年(1858)12月、学習館督学になり40石を下されますが、明治4年(1871)12月に亡くなります。

小梅は明治22年(1889)11月2日に86歳の生涯を終え、当山 妙宣寺に葬れました。

 

86歳で亡くなるまで、70年間に渡り日記を書き残し、また花鳥画や人物画などの文人画も多く残されています。

小梅日記

小梅日記とは

幕末期から明治前期の激動期に、当時の政治動向や社会状勢、日常生活などを克明に描いた、小梅の日記の事です。

 

家人の仕事を助け、絵を画き、家事にいそしむかたわら膨大な日記を書き残こされています。

日記の原本の約3分の1に当たる、嘉永2(1849)年から明治18(1885)年のものが『小梅日記』(東洋文庫)として発刊されています。

 

激動する幕末維新の流れのなかに身をおきつつも、直接参与することのなかった地方の一主婦の目で冷静に捕らえた時代の動きが淡々と綴られていて、女性史研究ならびに当時の地方の社会状勢、また明治維新後の士族の暮らしぶり研究するうえで貴重な歴史の資料として知られています。

 

2012年8月1日には「小梅日記を楽しむ会」より、日記の一部を抜粋した絵本 『小梅さんの日記』が発行され、和歌山市内の小中学校に配布、図書館へ寄贈されました。

この絵本では家族や友人と潮干狩りを楽しんだエピソードや安政の大地震の体験談などが絵日記風に記されています。