み教え

たといさとりあれども信心なき者は誹謗闡提の者也

 

法華題目鈔

文永三年

 

「信心肝要」

仏法の大海(だいかい)は信を能入とするといいます。能入とは、仏の教えの門に入り、仏道を成就へと導く最良・最先の手がかりのことです。

それが「信」。信ずることによってのみ仏道をきわめ入ることができるのです。

信心の志とその実修によってのみ、仏に救われるのであり、そのための根本条件が信の一字であります。 

悟りの有無、この場合の悟りとは仏教の理解度をさしますが、知恵・才覚などは、成仏の必要条件ではないです。いたずらな才能は、ややもすれば逆作用を生むから利根は不可。むしろ鈍根者は純信ゆえに一途で正しい見識を素直に素直にまっすぐ見るからです。

大事なことは、ただただ純粋に信心を持つのみなのです。


 飢時の飲食、寒時の衣服、熱時の冷風、昏時の睡眠

 みなこれ本有無作無縁の慈悲の利益にあらざることなきなり。

 

授職潅頂口伝鈔

文永十一年二月十五日

 

空腹のときにご飯が頂ける。のどが渇いたとき水が飲める。寒いときに温かい服を着る。熱いときに冷風にあたる。 ただただ当たり前の事であります。でも、食べたくても食べ物がない、寒くても着るものがない、眠くても寝ていられない・・・たくさんいます。

ただただ当たり前の事でも、それができるのは守られているから、眼には見えないけれども仏様神様に護っていただいている、功徳をいただいているからなのです。

まずそのことに気付く事が大切です。

今年新型コロナウイルスによって、当たり前だったことが当たり前でなくなり、不自由な生活が約1年たとうとしています。今までの生活が、どれほど有難いことだったのかが・・・

「南無妙法蓮華経の妙とは蘇生の義なり開顯の義なり」といいます。蘇生とは蘇らせる、生き返させることであり、開顯とはもう一度ものの本質、価値を見直すことです。

何気ない日常、平凡といわれる生活の有難さ、いつも護られていたんだと、仏様神様に感謝の心を持ちながら、南無妙法蓮華経を唱えていくと、必ず以前のようなそれ以上の生活に戻ることが出来のです。

あたり前っと思う心の袋の中には、ずっと仏様がいらっしゃたのです。


 仏法は体のごとし世間は影のごとし体曲れば影ななめなり

 

諸経与法華経難易事

弘安三年(1280年 聖寿59歳)

 

「体と影」

仏法と世間は一体不可分の関係にあります。仏法が主体・中心であり、世間はその反映・影響であります。

仏法が正しく伝わらないと、世間の濁乱(じょくらん)を招きます。   

それは源流が濁っていれば下流が清いはずはなく、体が曲がっていては影がまっすぐにはならないのと同じであります。

この関係を日蓮大聖人は「法定まり国清(す)めり」、国土の平安は仏法の正しい安定によるのであると言われています。

要するに宗教の邪正と国家の消長はそのままに対応し比例します。正しく仏法が弘まらないと国=政治も判断が遅れ安定が保てなくなります。

日蓮大聖人の一生の主張と課題と使命感をあふれさせた「立正安国」の「立正」の大切さでもあります。